今回は主君・豊臣秀長没後のお話で、一応6人目とされる豊臣秀吉に仕えます。前回に引き続き、「7人」のカウントがおかしなことになっています。そして最後の主君徳川家康が登場します。最後に、高虎の退職理由を改めて振り返りますが、高虎が見限った主君は意外に少ないことがわかります。
秀長の没後―6人目に数えなくていいのか?―
さて、前回、高虎の主君豊臣秀長が亡くなった後、秀保が家を継いだと書きました。後継者秀保は6人目の主君です。とすると秀吉は7人目、家康は8人目です。あれ?高虎は「7人」の主君に仕えたとされているのでは?人数が合いません。
実は一般的に秀保はカウントされないのです。高虎を世渡り上手等と非難する時に、磯野員昌の後継者織田信澄は1人にカウントするのに、同じく主君の代替わりの豊臣秀保はカウントしないのです。理由はわかりませんが、なんと適当な。
秀保の死去と秀吉による抜擢
家を継いだ秀保ですが、残念ながら若くして亡くなります。病死とも、家臣に殺害されたとも言われ、はっきりしません。
秀保の死去により、後継ぎが無く、高虎の仕えた秀長の家は断絶します。高虎40歳の時です。高虎は悲しみのあまり高野山へ行って出家したと言われますが、1ヶ月後には秀吉に招かれ、伊予で7万石の大名になります。
この秀吉が6人目とされます。前の会社が無くなり、次の会社に就職した。何か変でしょうか?まあ、「ホントに悲しいのなら、ずっと菩提を弔うべき」とは言われるかもしれませんが。でも、それなら高虎の家臣はどうなるでしょう?若い頃とは違い、高虎一人だけの問題ではないのです。
ただ、僅か1ヶ月で秀吉に仕えることになり、更には7万石の大名に一気に出世したのですから、悪く思う人もいるでしょう。
逆に言えば、秀吉が、弟の秀長の家臣として活躍する高虎の評判を知っており、浪人になったところをスカウトしたと言えます。秀吉は他の大名の家臣を誘うこともしているので、高虎を誘っても不思議はありません。
秀長・秀保への想い―江戸時代も続く高虎の気遣い―
秀吉のもとで高虎の活躍は続きますが、やはり秀長に仕えたことは高虎の人生を大きく変えたのでしょう。昔の某テレビ番組ではありませんが、高虎の人生を変えた「その時」は秀長に仕えた時ではないかと思います。
詳しくは書きませんが、高虎は江戸幕府(徳川氏)の時代になっても秀長の法事を行い(『高山公実録』・『公室年譜略』)、公家の九条幸家の日記からは秀保の母と交流を持っていたことがわかります。
徳川の世には豊臣家への気遣いをすることは憚られたにも関わらず、です。それだけ高虎の秀長や秀保への想いが強かった証拠です。これでも高虎が世渡り上手と非難できるでしょうか。
織田信澄の子への気遣いも―高虎は冷たい人物ではない―
ちなみに、少し前に出てきた織田信澄について、信澄は本能寺の変のすぐ後に大坂で殺害されます。その後、高虎は信澄の子を保護します(後に芦尾庄九郎と名乗る)。かつて自分が見限った主君の子を保護したのです。これも高虎が冷たく見限るだけの人物ではなかったことを示しています。
時代は進み、関ヶ原の戦いの頃です。高虎が上杉景勝攻め・関ヶ原の戦いへ行っている間に領国(伊予国)で一揆が発生します。この時に鎮圧に活躍したのが庄九郎です。
更に、庄九郎は大坂の陣では豊臣方に味方しますが、戦後、高虎が家康に嘆願して幕府の旗本になったと言われています。高虎の情の深さを感じるエピソードではありませんか?
徳川家康との出会いと接近
さて、話を元に戻します。
高虎は秀吉のもと、朝鮮出兵などで活躍しますが、やがて秀吉が亡くなります。高虎43歳の時です。
次はみなさんご存知のように徳川家康に接近していきます。家康が7人目です。
滅びゆく豊臣家(秀頼)から徳川家へ鞍替えした……と聞くと良く思わない人が多いと思います。しかし、それは高虎だけですか?多くの大名たちが、それまで秀吉に従っていたのに家康に接近していき、やがて江戸時代まで生き延びます。
豊臣秀頼を見限ったとも言われるでしょうが、高虎が珍しいわけではありません。この時代を生き延び、家族や家臣を守るためには、勝つ方に味方する必要があります。
秀吉が長生きし、家康と戦っていたら?と考えると、高虎がどう行動したかはわかりませんが、結果としては秀長・秀保に続き、主君秀吉の死去によって、仕える主を変えたわけです。
最期の主君・家康のもとで―勤続約30年―
家康のもと、高虎は信頼を得、豊臣氏に対抗する城づくり(大坂包囲網)等で活躍します。豊臣家が滅亡した大坂夏の陣では、身内を含む多くの家臣を戦いで失いながらも、徳川家の覇権確立に貢献します。
この後、高虎は徳川家から主君を変えることはなく、75歳の生涯を閉じます。思えば、最も長く仕えたのは徳川家で、約30年になります。もっとも、徳川の世において、大名にまでなっていた高虎が他に仕える先は無いので、転職はできないわけですが。
※厳密には、秀吉までと違い、高虎は家康の「家臣」という立場ではありません。家康の家臣と言えば、有名な徳川四天王や本多正信等になります。
高虎の退職理由を整理すると
退職理由を整理すると次のようになります。
①浅井長政→同僚とケンカして去る。
②阿閉家→同僚とケンカして去る。
③磯野員昌→織田信澄へ代替わり。
④織田信澄→80石から増やしてもらえず、辞職。
⑤-1豊臣秀長→秀長の死去で秀保へ代替わり。
⑤-2豊臣秀保→秀保の死去で後継者無く御家断絶。
⑥豊臣秀吉→秀吉の死去(引き続き秀頼に仕えなかったという意味では、見限ったとも言える)
⑦徳川家康→家康死後も、高虎は生涯徳川家(秀忠・家光)に仕える。
見限ったと言えるのは④の織田信澄と⑥の豊臣家だけです。世渡り上手と非難することはできないでしょう。但し、特に④までは藤堂家が作った高虎の伝記等が主な根拠です。歴史学的には根拠として弱い感があり、注意は必要です。
秀長や秀保(秀吉も?)は社長が亡くなった故の転職であり、最後の徳川家には約30年仕えたのです。
高虎の評価を考え直そう
前述のとおり、高虎は昔の主のことを忘れたわけではありません。秀長の供養や秀保の母との交流、織田信澄の子の保護などがあります。
また、秀長を見限らなかったのは、逆に言えば秀長に将来性を感じていたからと言えます。高虎には人の将来性を見る目があったとも言えます。
最近は転職も当たり前の時代です。良くない転職もあるでしょうが、キャリアアップのためや自分の能力を活かすためといった前向きな転職もあります。転職に対する見方も変わってきているのではないでしょうか。
そろそろ、転職という面での高虎の評価を見直す余地はあるのでは?と思います(そもそも退職理由は高虎の自分勝手ばかりではありません)。
2026年に期待?
余談ですが、約四半世紀前の大河ドラマ「葵~徳川三代~」では高虎が多く登場し、イメージが幾分良くなったと思います。2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟」の主人公は高虎の主君だった豊臣秀長です。高虎の登場も気になります。
《参考文献》
- 『高山公実録』上巻・下巻(清文堂出版、1998年)
- 『公室年譜略』(清文堂出版、2002年)※『公室年譜略』は江戸時代中期に藤堂家の家臣が作った高虎・高次(高虎の子で2代藩主)の伝記です。但し、根拠となる史料が殆ど記されておらず、誤りや不明な点も所々に見られます。
- 宮内庁書陵部編『図書寮叢刊 九条家歴世記録』四・五(明治書院、1999・2018年)
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