藤原四子とはどんな人物か?何をしたのか?3~武智麻呂政権の政治と終焉、四子の子~

前回は藤原不比等の没後、長屋王との対立を経て、武智麻呂の政権が成立する様子を見てきました。最終回の今回は、武智麻呂が政権基盤を固めていく過程と、その政治、そして政権の終焉について見ていきます。また、四子の子どもについても少し書きたいと思います。

※諸説あるものについては、本ブログでは原則として木本好信『藤原四子』に準じます。

武智麻呂政権の確立

「藤原武智麻呂政権」は成立しましたが、確立とまでは言えない状況でした。例えば、太政官の中には武智麻呂と距離を置き、親長屋王派であった阿倍広庭が引き続きいましたし、聖武天皇の妻・光明皇后の母・県犬養橘三千代は前述のとおり、房前の妻の母でもあり、房前を後援していました。

しかし、天平4(732)年2月に阿倍広庭が、翌5年1月には県犬養橘三千代が亡くなりました。これにより、武智麻呂にとっての障害は取り除かれました。武智麻呂の右大臣昇任を阻んでいたのも県犬養橘三千代であったと推測されています。

天平6年1月、武智麻呂は従二位・右大臣になります。大臣の立場を得たことで、武智麻呂は政府首班の立場となりました。この時点をもって「藤原武智麻呂政権」は確立したと考えられています。

この時、宇合も正三位になり、房前に並びました。

翌7年には皇族として重きをなしていた舎人親王と新田部親王が亡くなり、皇族勢力が政治の舞台から後退します。残った有力な皇族も皇籍を離れて臣下の立場になります。その中には藤原四子の次の時代を担う葛城王(橘諸兄)もいました。

武智麻呂政権の政治内容

それでは、武智麻呂政権は具体的にどのような政治を行ったのでしょうか。一つずつ詳細を見ると長くなるので、簡単に見てみましょう。

  • 畿内惣管・鎮撫使の設置(天平3、731年)。畿内惣管・鎮撫使は京・畿内の兵を動員して、盗賊や政治の是非を論じる者を取り締まったり、国司・郡司のことを巡察して天皇に報告したりする役割がありました。鎮撫使は山陽道等の各道に設置されました。
  • 節度使の設置(天平4年)。節度使は一部の道に設置されました。兵士の訓練、装備の補填、兵器の製造・修理、船の建造、兵糧の備蓄等が役割でした。藤原四子の内、房前は東海・東山道、宇合は西海道(九州)の節度使となっています。宇合が西海道の節度使となり、九州に軍事面で影響を与えたことは、後に宇合の子・広嗣が九州で反乱を起こした時に広嗣に有利に働いたと考えられています。
  • 学問の奨励と改善。天平2(730)年に優秀な学生を選抜して衣服・食料を支給します。また、神亀5(728)年に続いて大学寮の改革を行い、教育体制を充実させます。武智麻呂はかつて大学助・大学頭を務めたことがありました。
  • 班田の実施。班田は6年ごとに6歳以上の男女に対して田(口分田)を支給するものです。武智麻呂政権が成立する少し前の天平元(729)年がこの6年ごとの年にあたっていました。この時の班田はこれまでと異なり、全ての口分田を一旦回収し、改めて全員に支給し直すというものでした。この方法を実施した理由については諸説あります。
  • 朝廷の版図拡大。版図の拡大(東北・南九州)については、既に四子の父・不比等の段階から行われていました。武智麻呂はこれを継承したことになります。天平9(737)年2月には麻呂が東北地方の制圧のために派遣されています。
  • 官僚制度の改善。これは武智麻呂政権に限らず、大宝律令の施行後、必要に応じて行われてきたものです。武智麻呂政権もそれを継承して、前述の鎮撫使・節度使の設置をはじめ、役所の改編や職員数の変更等を行っています。また、国司の交代時の引継ぎをきちんと行うことを徹底しています。更に、この頃、一部の武官の勤務評定や任命・解任は本来兵部省が管轄すべきところ、長らくの慣例で式部省が行っていました。これを本来の兵部省に戻します。当時の式部卿(式部省長官)は宇合、兵部卿(兵部省長官)は麻呂でした。両省のトップが兄弟であったために、権益等の問題が生じず、スムーズに変更できたと考えられています。
  • また、国内政治ではありませんが、武智麻呂政権は周辺の外国にも遣唐使・遣新羅使・遣渤海使を派遣しています。この内、新羅とは緊張関係にありましたが、その解消には至らなかったようです。

武智麻呂政権の崩壊

天平7(735)年、日本で天然痘が流行します。前述した舎人親王と新田部親王が亡くなった原因も天然痘でした。これは一旦終息しますが、2年後の同9年に再び流行します(はしかという説もある)。

藤原四子が天然痘で相次いで亡くなったことは知られているとおりです。これが武智麻呂政権の崩壊へとつながっていきます。

まず天平9年4月17日に房前が天然痘で亡くなります。房前には没後に正一位・左大臣が追贈されています。

更に3ヶ月後の7月13日には麻呂が亡くなります。この年の初めには東北地方へ出征し、帰京して間もなくのことでした。

次いで武智麻呂が感染します。「武智麻呂伝」によると、武智麻呂の妹で聖武天皇の妻である光明皇后は自ら武智麻呂を見舞っています。武智麻呂が亡くなったのは、光明皇后が見舞ったとされる翌日の7月25日でした。

武智麻呂は亡くなる前日又は当日に正一位・左大臣になっています。これは没後に追贈された房前とは異なる処遇(武智麻呂の方が格上)です。

また、武智麻呂の病気回復を願って大赦が行われたことは、父・不比等の時と同じです。これは武智麻呂が不比等の後継者の立場であったことを示しています。不比等の後継者は実質的に房前であるとする説に対しては、生前(亡くなる直前ではあるが)の昇任や大赦の対応から、名実ともに武智麻呂とする説が出されています。

武智麻呂は佐保山で火葬されました。栄山寺にある墓は、武智麻呂の子・仲麻呂によって造られた可能性が高いとされています。

そして、最後に残った宇合も8月5日に亡くなりました。

こうして、藤原四子は4~8月の間に相次いで亡くなり、武智麻呂政権は終焉を迎えました。「なぜ一気に4人とも?」と感じますが、これは藤原四子に限ったことではなく、4~8月の間には他にも皇族や要人が多く亡くなっています(全員が天然痘であるとは限らないが)。これは「続日本紀」にある天然痘の流行期間と一致しています。

この時期、太政官8人の内、藤原四子を含む5人が亡くなりました。この後、残された太政官の一人である橘諸兄が大納言となり、次代を担うべく台頭していくのです。

また、武智麻呂・房前・宇合の子(乙麻呂・永手・広嗣)も従六位上から3階昇り従五位下となっています(麻呂の子はまだ幼少)。藤原四子亡き後、藤原氏でも次代を担う人材が育っていくことになるのです(広嗣は乱を起こしますが…)。

藤原四子の子ども達

最後に、四子の子どもたちについて代表的な人物を簡単に見ておきましょう。

まず、武智麻呂の子には有名な次男・仲麻呂がいます。仲麻呂は兄・豊成に比べて昇進は遅れていましたが、光明皇后の期待もあってか昇進のスピードを増していきます。

天平宝字元(757)年、藤原四子の次代を担った橘諸兄(故人)の子・奈良麻呂が、権力を拡大する仲麻呂を倒すべく反乱を企てます。

この時、仲麻呂の兄・豊成は反乱の密告を受けますが、対応しませんでした。これは豊成と仲麻呂の兄弟仲が悪かったことや、豊成と奈良麻呂の関係によるものとされています。

仲麻呂はこの奈良麻呂の変を乗り越えたことで豊成と政治的立場が逆転し、恵美押勝と称して台頭していきます。

しかし、光明皇后の没後は孝謙太上天皇と対立し、天平宝字8年に軍事衝突を起こして戦没します(恵美押勝の乱)。

次に房前の子ですが、長男の鳥養が早世し、房前の跡を継いだのは次男の永手でした。橘奈良麻呂の変では取調べに尽力しますが、仲麻呂政権の中で動向が見えなくなります。恵美押勝の乱では正三位となり、孝謙太上天皇による新体制において重要な位置を占めます。

やがて称徳天皇が崩御すると、式家の藤原良継・百川兄弟と共に光仁天皇の擁立に努めます。こうして、後の道長に繋がる藤原北家が台頭する礎となりました。

また、房前の四男清河は遣唐使として唐へ赴きます。この時清河は鑑真の来日を要請しています。清河は帰りの船が遭難して唐へ戻った後、帰国できないまま唐で亡くなりました。

四子の内、式家宇合の子については、前述の反乱を起こした長男・広嗣がいます。

次男・良継は広嗣の乱に連座して処罰されますが、後に許されます。恵美押勝の乱では仲麻呂の討伐に加わり、これをきっかけに台頭していきます。

前述のように、称徳天皇の崩御後、北家の永手と共に光仁天皇を擁立したのは良継と弟の百川(宇合の八男)でした。光仁天皇(子は桓武天皇)の皇位継承により、これまでの天武天皇系統から天智天皇系統へと皇統が移りました。

麻呂の子には他の兄の子のように(良くも悪くも)有名といえる人物はいません。3男1女がいたようですが、この内2人の男子についてはよくわかっていません。

残る男子の浜成は大蔵卿・武蔵守となり、位も従三位に昇ります。しかし、桓武天皇の時代に太宰帥となり、これまでの職歴で善政が無かったとして降格・職務停止となります。これは、浜成が桓武天皇の皇位継承に反対したためとされています。

更に桓武天皇と対立する氷上川継(天武天皇の曾孫、聖武天皇の外孫、浜成の娘婿)の謀反に連座して処罰されます。

娘の百能は南家の豊成(武智麻呂の子)の後妻となったことがわかっています。

改めて、藤原四子について

さて、ここまで藤原四子につい見てきましたが、いかがだったでしょうか。高校の日本史になってようやく登場する藤原四子ですが、登場したと思ったらすぐに4人とも亡くなってしまいます。

どんな人物だったのか、何をしたのかもわからないまま消えてしまい、何か「大したことなかった」という印象を持ってしまいませんか?(←少なくとも私はそうだった。しかも、良くも悪くも子孫の方が有名で、四子の影が薄い印象。)

しかし、このように見てくると、大きな存在であった父・不比等のもとで4人とも出世して要職を務め、それは不比等の没後も変わりませんでした。特に武智麻呂と房前はその代表格ではないでしょうか。宇合も、遣唐使として唐へ渡り、東北へ出征しているといった、貴族的な印象の藤原氏(←その印象が誤っているのかもしれませんが)とは異なる活躍です。

また、麻呂は最も影が薄いと思いますが、平城京を管轄する要職に就き、武智麻呂政権の成立のために重要であった天平への改元においても一役買っています。武智麻呂政権下では麻呂が東北地方へ出征しています。

不比等という偉大な人物の跡を受けて4人がそれぞれ役割を果たし、その家は後世につながり、やがて摂関政治の黄金時代へと繋がっていったのです。

《参考文献》

  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 木本好信『藤原四子』(ミネルヴァ書房、2013年)

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