藤原四子とはどんな人物か?何をしたのか?2~長屋王の変と武智麻呂政権の成立~

前回は藤原四子が父・不比等のもとで政治の表舞台に出ていく様子を見てきました。今回はその不比等が亡くなり、長屋王との対立を経て、武智麻呂の政権ができていく過程を見ていきます。

※諸説あるものについては、本ブログでは原則として木本好信『藤原四子』に準じます。

長屋王政権のもとで

養老5(721)年、宇合は一気に4階昇り、正四位上となりました。また、麻呂は従五位下から5階昇り従四位上となりました。房前も従四位上から3階昇り従三位となりました。この時位が上がった17人の内、上昇5階は麻呂のみ、4階は宇合のみ、3階は房前のみで、武智麻呂も2階昇っています。

正四位上まで昇るスピードは四子の中で宇合が最速です(但し、武智麻呂・房前は正四位上を飛ばして更に上へ一気に昇っている)。

これは、不比等没後とはいえ、藤原四子を加えて政治を安定させようとする元明太上天皇(太上天皇は譲位した天皇のこと)・元正天皇の意志の表れとされています。

同年、武智麻呂は造宮卿を兼務します。造宮卿は、平城宮(平城京の内、宮城部分)の造営・修理のための造宮省の長官です。

また、房前はこの頃に授刀頭(たちはきのかみ)になっていた可能性が高いとされています。授刀頭は内裏を護衛する授刀舎人寮の長官です。房前は軍事権の一部を掌握していたことがわかります。後に授刀舎人寮が中衛府に併合されてからは、房前は中衛大将に就いたと推定されています。

同年、麻呂も左右京大夫となります。以前には美濃介でしたが、その後に美濃から帰京し、今回の任命までは中央で何らかの官職に就いていたと考えられています。左右京大夫は平城京の左京・右京を共に管轄する要職です。職務の中には平城京の警備等もあり、いくらかの軍事力も管轄していました。

この養老5年10月に寿命を察した元明太上天皇は房前を内臣(うちつおみ)に任じます。内臣は通常の職制には無い特別職です。元明太上天皇の崩御後の混乱に備えて、房前が率いる授刀舎人寮(天皇親衛軍)の活動は迅速かつ機密性が求められました。このため、太政官・中務省を経由する勅(天皇の命令)によらず、直接勅を受けて行動できる内臣に房前が就任する必要があったとされています。

また、詳細は省略しますが、房前の内臣就任によって長屋王と協調体制が構築でき、皇族と藤原氏の対立を防ぎ、将来の首皇子への皇位継承を確実にすることが目的であったともされます。

しかし、このような房前への期待から、やがて武智麻呂と房前の間には距離ができることになります。

長屋王と藤原氏の対立の始まり

房前が内臣となった後、養老5(721)年12月に元明太上天皇が崩御します。

翌年になると、太政官の一部が罪を得て処罰されます。詳細は省略しますが、これは長屋王と武智麻呂等の政治的乖離の表れという説があります。

神亀元(養老8、724)年2月、元正天皇が譲位して首皇子が即位します(聖武天皇)。即位に伴い、武智麻呂・房前は1階昇り正三位となります。また、長屋王は正二位となり、太政官の中で唯一昇任して左大臣になります。これは、長屋王の主動力が強化されたことを示しています。

聖武天皇は即位後、自身の母・宮子(不比等の娘、四子の姉妹)へ「大夫人」の称号を与える勅を出します。これに対し長屋王らは、法令では天皇の母は「皇太夫人」と称するとあり、どうしたものかと疑義を呈します。

詳細は省略しますが、「大夫人」の称号は武智麻呂ら四子が主体となって天皇に提案した(これにより姉妹の宮子を皇太后の地位に引き上げることで、藤原氏の地位も引き上げようとした)と推測され、これに反発した長屋王らが疑義を呈したとされています。これは長屋王勢力と藤原氏勢力の抗争の一端で、やがて長屋王の変へつながっていくとされています。

この年(神亀元年)に宇合は持節大将軍に任じられ、3万人の兵を率いて東北地方の平定に向かいます。これは平定戦の重要な位置にある常陸国や(東北から見て)その背後の上総国等について、かつて常陸守や按察使として状況を把握していたことが、宇合が選ばれた理由と考えられています。

宇合は年内に帰京し、この功績により、従三位になりました。この平定戦で宇合の部下であった者達は、後に政府の要職に就いています(宇合の意向を反映したと推定されている)。

さて、この頃の麻呂について、前述のとおり、養老5(721)年には左右京大夫となっていますが、その後は動向がよくわかっていません。ようやく動向が判明するのは神亀3(726)年で、麻呂は白鼠(白鼠は祥瑞=めでたい事の表れ)を献上した功績で従四位上から正四位上となります。

同じ年、宇合は聖武天皇の難波宮行幸に備え、難波宮を造る知造難波宮事に任命されます。この役職に対して宇合の位が不釣り合い(高い)であったため、聖武天皇がわざわざそんな宇合を任じたことになり、その信頼度が窺えます。

この年=神亀3年から同5年には武智麻呂・房前がともに按察使を兼任しています。

聖武天皇の皇子誕生から長屋王の変へ

神亀4(727)年、聖武天皇と光明子(不比等の娘、四子の妹)の間に待望の皇子が誕生しました。生後1ヶ月余りで皇太子となりますが、これに不満を抱いたとみられる長屋王は、皇太子への拝謁に参加しませんでした。

しかし、皇太子は翌年に亡くなってしまいます。聖武天皇の悲しみは大きかったようです。藤原氏にとっても、妹・光明子の子が天皇になる夢が潰えたことになります。

長屋王と藤原氏の対立、光明子が産んだ皇太子が亡くなったこと等の波乱の中、ついに有名な長屋王の変が起こります。

天平元(神亀6、729)年2月、長屋王が謀反を企てたとして、宇合らが兵を率いて長屋王邸を取り囲みます。2日後、長屋王は邸内で自害します。

長屋王が無実であったか否かはともかくとして、この事件の首謀者については諸説あるようです。一般的には藤原四子が政敵・長屋王を倒したと考えられています。しかし、近年では四子も一枚岩ではなく、主導者が誰であったかは見解が分かれています。

まず、房前が主導者であるという説があります。しかし、房前は長屋王の変において動向が記録に残ってもよいにもかかわらず、姿が見えません。当時の中衛府の長官は房前ですが、変において中衛府の兵を率いたのは式部卿の宇合でした。このことから、房前はあまり関わっていなかったと考えるのが妥当なようです。

房前は長屋王と協力して政治を行うべき立場にあったこと、武智麻呂のグループからは離れた立場にあったこと等が理由として挙げられています。房前は、この後亡くなるまで昇任が無く、参議のままでした。

次に武智麻呂です。反論もあるものの、武智麻呂が事件後すぐ大納言になっていること等から、彼が主導者であったという説が通説化しています。事件後、宇合も正三位・参議となっています。

武智麻呂らの長屋王打倒計画は、太政官内にも親長屋王の人物がいる等、完全に有利とは言えないものでした。事件において、政権内には長屋王の派閥の人々が一定数おり、長屋王を自邸に押し込んだのが成否の鍵とされています。軍を率いてその指揮をとったのは宇合でした。

この点、主導者は武智麻呂で、その下で最も尽力したのは宇合とされています。事件後に宇合と親しい人物の位が上がっていることもこれを裏付けています。

麻呂は事件時の動向は不明ですが、事件後に従三位・参議となっているため、武智麻呂に組みしていたとみられています。麻呂は長屋王謀反の密告を主導していたとする説もあります。また、左右京大夫であった麻呂は、長屋王の変に伴う平城京内での騒擾へ備える役割も大きかったとされています。

なぜ長屋王の変は起きたのか

長屋王の変が起きた理由としては次のような事があります(下記のどれか一つではなく、複合的な理由)。

  • 房前と政治路線が異なっていた武智麻呂にとって、不比等の跡を継いで、藤原氏の代表者の地位を確固たるものにするため。そこに宇合・麻呂も協力。
  • 光明子(聖武天皇の妻)の立后(皇后になること)によって権力を得ようとしたところに、宮子の大夫人称号事件での長屋王の反対があった。今後も障害になりそうな長屋王を、先手をうって排除した。
  • 皇位継承順位(当時は現在とは異なり、明確な順位の決まりはなく、あくまで血統や権力上の順位)という意味で、長屋王が聖武天皇の有力なライバルであった。そのため、聖武天皇を擁する藤原氏が長屋王を排除した(聖武天皇にとっても排除すべき存在になっていた)。
  • 聖武天皇と藤原四子の妹・光明子の間に生まれた皇子は亡くなっていた。この時点で、長屋王の子は聖武天皇の次の皇位継承者となりうる存在だったため、藤原氏にとって脅威だった。この長屋王の子達は長屋王の変で自害している。対して、四子の姉妹である長娥子と長屋王の間の子達は赦されている。

武智麻呂政権の成立

さて、長屋王の変によって、武智麻呂は主導権を握るものの、その基盤が確固たるものになったかというと、実はそうではありません。太政官の中には長屋王派の阿倍広庭や、長屋王の変では武智麻呂についたものの、全面的な支持はしていないとみられる舎人親王がいました。

特に舎人親王は藤原氏にとって注意すべき存在であったようです。これは、舎人親王に対する待遇を従来よりも低下させる措置をとることで、親王を抑圧しました(単なる待遇の簡素化という説もある)。

次に、武智麻呂は妹で聖武天皇の妻である光明子を皇后の地位につけようとします。天皇と光明子の間に生まれた皇子は亡くなっていました。そこで、光明子を皇后にすることで、藤原氏の政治を優位に行おうとしたのです。しかし、光明子は皇女ではないため、皇后とするには異論が出る余地がありました。

これについては改元で対応します。甲羅に「天王貴平知百年」と文字のある亀が献上され、これが祥瑞(めでたい事)とされたとして、年号が天平に改元されました(天平元年=729年)。祥瑞が現れることは天皇の政治が理想的であることを示しているとされ、つまり現在の武智麻呂中心の体制が正当であることを意味します。正当性が認められたことにより、光明子を皇后とすることを進めやすくなったのでしょう。改元から5日後、光明子は皇后となりました(光明皇后)。

ちなみに、この時の亀は麻呂を通じて献上されたとされています。また、亀の発見者に献上するように言った僧は宇合と遣唐使船で一緒であったとされます。これらの事も含め、光明子を皇后にするために改元が必要であったため、その改元のために祥瑞が藤原氏によって捏造されたと考えられています。

この天平元年9月に朝廷内の人事異動が行われます、その中で房前が中務卿となります。以前に内臣となった房前ですが、内臣の実態についてはよくわかっておらず、自然消滅したとする説もあります。これは房前を特別職である内臣(=特別扱い)ではなく、通常の職制の中にある中務卿とすることで、武智麻呂が自分の指揮下に置こうとしたと考えられています。

翌天平2(730)年に太政官で大納言の多治比池守が、同3年には同じく太政官で大納言の大友旅人(長屋王に近い立場にあった)が亡くなりました。これで武智麻呂がただ一人の大納言となったことで、その基盤は更に盤石になりました。なお、大伴旅人は房前に物を贈っており、親交があったとされています。

そして天平3年8月、大伴旅人等が欠けた太政官に新たなメンバーが任命され、その中には宇合・麻呂がいました。こうして、藤原四子全員が太政官となったのです。宇合・麻呂が入ったのは、武智麻呂にとって、房前を掣肘し、相対的に地位低下を図ったためと考えられています。

これをもって、太政官の多くが藤原四子と親武智麻呂派で固められ、「藤原武智麻呂政権」が成立したとされています。しかし、それでもまだ盤石とは言えない状況でした。

次回は武智麻呂が政権をより盤石にしていく過程と、政権の崩壊について見ていきます。

《参考文献》

  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 木本好信『藤原四子』(ミネルヴァ書房、2013年)

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