藤原四子とはどんな人物か?何をしたのか?1~父・不比等のもとで~

「藤原四子」という言葉を聞いたことはあるでしょうか。藤原氏の4人の子という意味です。4人の名は武智麻呂・房前・宇合・麻呂。親は藤原不比等、祖父は有名な中臣(藤原)鎌足、妹には聖武天皇の妻(光明皇后)がいます。

この4人は奈良時代に政界の中心に立ちますが、歴史の教科書では長屋王を倒して政権を奪うものの、4人ともあっけなく疫病で亡くなった程度にしか書かれていません。この4人はどのような人物で、どのような政治を行ったのか。教科書には書かれない実像を、木本好信氏の著書『藤原四子』を中心に、3回に分けて見ていきたいと思います。

※諸説あるものについては、本ブログでは原則として木村氏の著書に準じます。

藤原四子の出自

藤原四子とは武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)の4兄弟を指します。有名な中臣(藤原)鎌足を祖父に持ち、養老律令の編纂で有名な不比等が父です。

姉妹には文武天皇の妻・宮子、長屋王の妻・長娥子、聖武天皇の妻・光明皇后がいます。

武智麻呂は南家、房前は北家、宇合は式家、麻呂は京家と、それぞれの家をたてます。平安時代に摂関政治で有名な藤原道長・頼通は北家の房前の子孫です。

4人の内、武智麻呂については、子の仲麻呂による「武智麻呂伝」という史料があり、詳細にわかっているようですが、他の3人については史料が乏しく、武智麻呂ほど詳しくはわからないようです。

長男・武智麻呂は680年に生まれました。母は中大兄皇子や中臣鎌足と共に蘇我入鹿を倒した蘇我倉山田石川麻呂の姪です。

大宝元(701)年、22歳の時に正六位上に叙され、同年中に内舎人(天皇の雑使に奉仕しながら、天皇の外出時には警護を行う役職)となります。

次男・房前の生年を記した史料はありませんが、没年と享年を記した史料があり、逆算すると武智麻呂の翌年681年生まれになります。母は武智麻呂と同じとされています。

房前が最初に叙任された時期や内容は不明ですが、蔭位の制(祖父や父の位階によって、最初に叙される位階が決まる)によって正六位下と推定されています。大宝3(703)年に東海道巡察使となった時点では正六位下でした。巡察使は国司・郡司や農民の状況を把握するために派遣されたものです。

三男・宇合も同様に生年を逆算するしかなく、694年生まれになります。母は武智麻呂・房前と同じとする史料もありますが、不審な点もあり、研究上は不明とされています。房前同様に蔭位の制で最初は正六位下と推定されています。霊亀2(716)年時点で正六位下であったことがわかっています。

四男・麻呂も生年を逆算するしかないのですが、享年に複数の説があり、695年頃に生まれたと考えられています。母は父・不比等の異母妹(麻呂の叔母、元は天武天皇の妻)です。母は違えども、実の兄妹の間の子ですから、現代では想像しにくいですね。麻呂も蔭位の制で最初は正六位下と推定されています。霊亀3(養老元、717)年時点では美濃介(○○介はその国のナンバー2)の官職であったことがわかっています。この年に従五位下となっています。

父・不比等の政治体制と武智麻呂・房前

大宝2(702)年、武智麻呂は刑部中判事となります。父・不比等と似た経歴です。この頃、不比等は大納言で、前年には娘・宮子(武智麻呂の妹)と文武天皇の間に首皇子(後の聖武天皇)が生まれていました。

しかし、翌年に武智麻呂は病で職を辞して療養します。これにより、1歳下の房前とキャリアが大差無いものになったようです。

翌大宝4(慶雲元、704)年には武智麻呂に長男・豊成が誕生し、3月に病気から復帰します。大学助となった武智麻呂は、当時衰微していた大学寮を見て、儒教を盛んにするために有能な学者を招く等して大学寮を復興させます。

翌慶雲2年、武智麻呂と房前は従五位下となります。同3年に武智麻呂は大学頭(学問・教育のため機関である大学寮のトップ)となり、大学寮の発展に尽力します。

慶雲4年、文武天皇が25歳で崩御します。天皇の子は幼少であったため、母の元明天皇が即位し、政権の体制が一新されました。これにより、四子の父・不比等を中心とする体制ができあがりました。

この時点で政治の舞台に出ていたのは武智麻呂・房前だけでした。「武智麻呂伝」には武智麻呂が図書頭兼侍従となったとあります。武智麻呂は図書頭として、壬申の乱以降の朝廷の蔵書が衰微していたのを整備し直したようです。また、侍従としては元明天皇の側近くに仕えています。これは、不比等が天皇と藤原氏の密接な関係を維持するためにとった方策であると考えられています。

一方の房前は、文武天皇が崩御した慶雲4(707)年に天皇の陵(墓・古墳)を造る造山陵司となっています。同年に不比等体制ができた時の房前の動向は不明です。

和銅2(709)年には、房前は東海・東山道の巡察使となっています。この時の巡察使は通常とは違う特殊な役割を持った派遣とされており、房前の政界での存在が確かなものになっていたことが分かります。

そして、この頃に房前の上を行っていたのが不比等の娘婿である長屋王でした。長屋王は後に藤原四子と対立することになります。

和銅4(711)年、武智麻呂・房前は従五位上となります。

翌5年、武智麻呂は近江守(○○守はその国のトップ)となります。近江国は不破関・愛発関につながる等、軍事上重要な国です。「武智麻呂伝」には武智麻呂が近江で善政を行ったと記されています。

また、武智麻呂は仏教を重視し、近江国の荒廃した寺院を見て、近江国だけではなく全国的に寺院政策を改めることを天皇に奏上(進言)しています。

武智麻呂は霊亀元(715)年には従四位上まで昇り、翌年には式部大輔(人事等を司る式部省のナンバー2)となります。

宇合の異例の昇叙

※昇叙とは位(正五位上など)が上がることです。

霊亀2(716)年、宇合が第八次遣唐使の副使に任命され、位階も正六位下から一気に従五位下となりました。当時、兄の武智麻呂は従四位上、房前は従四位下でした。

四子の中で宇合は最も文才があったため、文才が必要な遣唐使副使になったと考えられており、宇合は唐へ渡っています。

ところで、この入唐までは名前が「馬養」であったものを、唐で低い身分と見られないように「宇合」に改名したという説があります。

宇合は養老2(718)年の帰国後に従五位下から正五位下へと昇り、更に翌月には正五位上となっています。僅か2年半程で5階も位が上がるのは異例です。これも父・不比等の影響であると考えられています。

唐から帰国した後、宇合がどのような官職に就いていたかは不明ですが、半年後の養老3年時点では常陸守であり、この年に初めて設置された按察使(「あぜち」読む。宇合の場合は安房・上総・下総を管轄する職で、国司よりも上位。)にも就任しました。

この按察使は唐の制度で、唐の政治体制を見て来た宇合らが関与し、日本でも制度を導入したとされています。

房前の抜擢

房前は和銅2(709)年に東海・東山道の巡察使となって以降、8年間は動向が不明です。

養老元(717)年、房前は参議になり、太政官(天皇のもとで全ての官庁を統括する最高官庁)の構成員に加わります。この任命理由については、次のような説があります。

  • 太政官の欠員を補充するため(この年1・3月に1人ずつ欠員が生じた)。
  • 太政官の欠員補充の候補が既にいたにもかかわらず、房前が任命されているため、不比等が藤原氏の発展を図ったもの。
  • 房前を不比等の実質的後継者とするため。→この説は否定されている感があります。
  • 兄の武智麻呂を太政官の正官とすると、不比等と父子で務めることになる。父子共に正官になるのは前例が無く、それは認められ難いため、房前を非正官(参議は正官ではない)として任命した。
  • 不比等の妻(房前の継母)であり、房前の妻の母でもある県犬養橘三千代の後援によるもの。

武智麻呂の式部卿・東宮傅就任

養老元(717)年に生じた太政官の欠員は翌年に全て補充されました。この時の人事で、不比等は近親や政治的に近い人物を太政官に任命し、政権の体制は確固たるものになりました。その代表例が、長屋王(不比等の娘婿)が参議・中納言を飛ばして、一気に大納言になったことです。

同(養老2)年9月、長屋王の跡を受けて武智麻呂が式部卿(式部省の長官)になり、更に翌年には東宮傅を兼ねます。武智麻呂が式部卿になったことで、人事を司る式部省を藤原氏が掌握したことになります。

また、東宮とは皇太子(当時は後の聖武天皇である首皇子)のことで、将来天皇となる首皇子を補佐し、藤原氏を発展させるための布石となりました。

不比等の他界

按察使が設置されて宇合が就任し、武智麻呂が東宮傅となった翌年の養老4(720)年、四子の父で政権の中枢にあった不比等が62歳で亡くなりました。

不比等の抜けた政治体制は当初は天武天皇の皇子達によって担われました。そして、翌養老5年にできた新体制では、武智麻呂・房前もいましたが、皇族を中心とした長屋王政権となりました。長屋王は天武天皇の孫で、前述のように不比等の娘婿です。

武智麻呂はこの時に一気に中納言になり、太政官に加わりました。従来から太政官であった参議・房前と共に兄弟での太政官です。このことは、武智麻呂が不比等の後継者であることを示しています。武智麻呂・房前は共に従三位となっています。

さて、不比等が亡くなり、政権の中心は四子ではなく長屋王が担うこととなりました。次回は、長屋王政権下での四子と、長屋王との対立について見ていきます。

《参考文献》

  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 木本好信『藤原四子』(ミネルヴァ書房、2013年)

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