藤堂高虎の武勇伝1~何がすごい?逸話の数々~

主君を7回変えたことで有名な戦国武将・藤堂高虎。戦国武将の中では有名なのか、有名とまではいかないのか、微妙な位置にいる武将ではないでしょうか。

そんな藤堂高虎ですが、歴史上の人物に付き物の「逸話」にはどんなお話があるのでしょうか?今回と次回は高虎の逸話を紹介したいと思います。逸話なので、実話かどうか定かでない話もありますが、後世の人々が高虎をどのように見ていたかを窺える話でもあります。

虎づくしの親子

村の侍から大大名に出世した藤堂高虎は、弘治2(1556)年1月6日(旧暦)に近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県甲良町)で生まれました。

高虎の父は虎高、母は「とら」という名前であったとされています。虎高と「とら」から高虎が生まれた、虎づくしですね。虎高は、子どもの頃から他の子よりも優っていた高虎に期待をかけて、自分の名前を逆転させた名前にしたとされています。

ちなみに、高虎には高則という名の兄がいましたが、若い時に戦死しました。これにより高虎が後継ぎの立場になったが故に、虎高の期待も大きかったことでしょう。

母の名前が「とら」であったことは、高虎を初代とする津藩藤堂家で江戸時代に編纂された『宗国史』に書かれています(他にも江戸時代の史料で「とら」の名を記すものはある)。しかし、高虎や「とら」が生きた時代の史料では確認できないので、本当かはわかりません。

「とら」は本能寺の変の翌年にあたる天正11(1583)年に亡くなったとされています。高虎の活躍がこれから、という時でした。

一方、父の名前が虎高であったことは古文書からわかります。豊臣秀吉の朝鮮出兵の最中に虎高が高虎の重臣(従兄弟でもある)藤堂新七郎良勝へ送った手紙に「虎高」という署名があります。

虎高が亡くなったのは、秀吉が亡くなった翌年で、関ヶ原の戦いの前年にあたる慶長4(1599)年の10月18日でした。この時、高虎は伊予国板島(現在の宇和島)の大名になっていました。我が子が大名に出世した(この後、更に出世しますが)姿を見て、虎高はどんな気持ちだったのでしょうか。

高虎の神秘的な誕生と旺盛な食欲

さて、高虎は、既に母の懐妊時からエピソードが残されています。

母が、自分の体の左から朝日が体内に入る夢を見て、2~3ヶ月後に高虎を懐妊したというのです。これは豊臣秀吉の誕生伝説と同様ですね。

高虎は生まれる前から良く動き、母は苦労したようです。生まれてからも、乳母(実母に代わって母乳を与える女性)1人では母乳が足りず、2人追加しても足りず、藤堂家の家来の家からも呼び集めたようです。

また、3歳(数え年なので、実際は2歳ぐらい)の時には既に餅を食べ、5~6歳の時には大人と同じ量を食べたとされます。

これらの話は、いずれも後世に書かれた「玉置覚書」という書物によるものです。人間離れし過ぎているので、さすがに事実ではないでしょう。

人間離れした?体格

そんな食欲旺盛な高虎です。体も大きかったとされています。

兄の高則も普通の子より大きかったのですが、その兄が13歳の時に7歳の高虎の方が少し背が高かったとされています。中学生よりも小学1年生の方が背が高い・・・そんな事がありえるでしょうか?もちろん、後世の書物によるものです。

津藩の藩士が書いた『公室年譜略』によると、最終的に高虎は身長6尺2~3寸(約190㎝)あったそうです。ちなみに、高虎の子で津藩2代藩主の高次は6尺余(180㎝余)だったというので、親子揃って大男だったようです。もしかすると虎高も背が高かったのかもしれません。

この時代の平均身長は150㎝ぐらいと言われますから、高虎は平均よりも40㎝高かったことになります。現代のイメージで言えば2m超えですね。

この身長が事実であれば、さぞ戦場で目立ったことでしょう。当時は合戦の場で自分の活躍が上司に見えるように、目立つ鎧・兜を身につけることもありましたが、高虎はその体格だけで目立っていたことになります。

また、誕生時から高虎の泣き声を聞いた者はおらず(生まれた時に泣かないのは危険な気が・・・)、行動は荒っぽく、よく怪我もしましたが、「痛い」と言ったことは無かったそうです。

食欲旺盛で強い大男。まさに戦国時代の申し子です。

主君を何度も変えた(主君が何度も変わった)

さて、そんな高虎ですが、最初に浅井長政に仕えます。しかし、ケンカの末に同僚を斬って逃げ出します。高虎の最初の就職先はこれであっさり退職になります。以降、高虎の主君は次々と変わります(「高虎が主君を変えた」だけではなく、主君の方が変わったと言えることもあります)。

5人目の木下秀長(後の羽柴・豊臣秀長。秀吉の弟。)に仕えた時から出世が始まり、やがて32万石の大名にまで上り詰めます。仕える主君によっては家が滅びる時代です。生き抜くだけでも大変な戦国時代を切り抜けて出世を果たした高虎は、「先見の明があった」とよく言われます。

主君が変わったことについては、話すと長くなるので、以下の記事をご覧ください。

しかし、主君を何度か変えた高虎は決して薄情なわけではありません。それは豊臣秀長やその養子・秀保の母との関係を見るとよくわかります。詳細は以下の記事をご覧ください。

偵察中に槍で刺される

高虎は羽柴秀長に登用され、秀長に従って但馬国の攻略に参戦します。そこで天正8(1580)年から翌9年にかけて一揆の鎮圧を行います。

ある時、横行(よこいき)という地で一揆が砦に籠り、高虎等はそれを攻撃します。夜、高虎は家臣の居相孫作を連れて、城へ偵察に行きました。

高虎が城の溝(堀か)に潜んでいたところ、敵は物音に気付いたのか、城内から槍を突き出してきました。槍は高虎の股付近に命中します。普通ならばここで声を上げるでしょうが、高虎は無言だったのか、敵は気付きませんでした。

とはいえ、敵にも何かを刺した感触はありました。高虎は足に刺さった槍を抜き、服で血を拭いました。敵は槍先に血が付いていなかったため、「朽ち木でも刺したのか?」と思って、ついに高虎に気付かなかったのです。

さらに高虎がすごいのはここからです。なんと槍の傷に構わず、そのまま城内に乗り込んで「出合え!」と声を上げ、敵を斬り捨てたのです。その後どうやって脱出したのかは記録に記されていませんが…。

以上は「栃尾右門家乗」・「居相孫作家乗」・「大木長右衛門家記」等の史料(いずれも『高山公実録』に引用されているもの)に書かれています。これらは家臣の家の由緒等を記した記録です。

高虎や居相孫作が当時、現地で書いたものではないので、あくまで後世に伝わった言い伝えです。それでも、家臣の家に伝わった(しかも一つは当時高虎と一緒に忍び込んだとされる居相孫作の子孫に伝わった)話なので、真実か、これに近い出来事はあったのかもしれません。

槍で刺されて、声も上げず、槍を拭って、負傷したまま城へ乗り込んで戦う。とても人間とは思えない武勇伝です。

偵察中に鉄炮で撃たれる

天正13(1585)年、羽柴秀吉は四国の長宗我部氏を攻めます。弟の秀長も出陣し、高虎もこれに従軍します。ここでも高虎の武勇伝が見られました。

ある時、高虎は家臣の服部竹助1人だけを連れて、敵の城の堀の深さを測るために忍び込みます。その時、城から鉄炮が放たれ、高虎の胸に命中します。

高虎は具足を着用していたためか、軽傷で済みました。でも、軽傷とわかったのは自分の陣地に戻ってからのこと。その場では軽傷とわからなかったので、当然ながら、服部竹助は撃たれた高虎に声をかけます。すると、声で敵に気付かれると思ったのか、高虎は「黙れ!」と言って、竹助の顔を肘打ちします。高虎は見事に竹助の奥歯2本を折ってしまいました(高虎よりも竹助の方が重傷?)。

高虎が自陣に戻った後、具足を脱ぐと、鉄炮の弾が当たった胸の辺りは約15㎝四方が腫れていたらしいです。それでも高虎は平然としていたようです。

一方の服部竹助は、自分の主を心配して声をかけたのに、肘打ちされて歯を折られた・・・竹助がかわいそうです・・・。ちなみに、竹助は折られた奥歯を他の家臣に見せたとのことです(笑い話のネタにしたのか?)。

これは「西島留書」という、恐らく西島八兵衛(藤堂家臣)の家の史料に書かれており、どこまで真実かはわかりません。ただ、当の服部竹助の家の史料には少し違う話が書かれています。

服部竹助家の史料によると、阿波国一宮城を攻撃中、高虎が夜に偵察に出かけた時の話として書かれています。竹助は高虎の供をして一緒に偵察に出ていました。

すると、敵の撃った鉄炮が高虎に命中します。このあたりは「西島留書」と同じです。しかし、高虎はこの時馬に乗っており、撃たれて落馬した高虎を竹助が再び馬に乗せて介抱した(恐らくは自陣に引き上げた)とあります。歯を折られた話は、当の竹助の家の記録には見当たりません。

また、同じく家臣の家の史料とみられる「平尾留書」にも少し違う話が書かれています。一宮城で夜間に高虎が城に近づいた時、敵の横山隼人が出てきて高虎と一騎打ちになります。その最中に高虎が鉄炮で撃たれたとあります。

このように、少しずつ異なる話が伝わっており、今となってはどれが真実かはわかりません。しかし、鉄炮で撃たれたという事は共通しているので、本当かもしれません。

今回は高虎の人間離れした逸話を見てきました。次回はそんな高虎が残した(とされている)遺訓を見ていきたいと思います。

《参考文献》

  • 上野市古文献刊行会編『宗国史』上巻(同朋舎出版、1979年)
  • 上野市古文献刊行会編『高山公実録』上巻・下巻(清文堂出版、1998年)
  • 上野市古文献刊行会編『公室年譜略』(清文堂出版、2002年)

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