江戸幕府が大名を城普請に動員したのはなぜなのか?1~大名を弱らせるためではなかった?大名統制と大名への配慮~

「江戸幕府は大名の力を削減するために城の普請を行った」というイメージを持っていませんか?現在では、その考え方は改められています。実は大名が城の普請に動員されること(普請役)は、有名な「御恩と奉公」の「奉公」にあたるものと認識されていました。軍事的動員はわかりやすい「奉公」ですが、普請役も「奉公」なのです。

今回は川路祥隆氏の論文によって、その大名の「奉公」に対して、幕府が様々な配慮を行っていたことを見ていきたいと思います。幕府が大名を一方的に使役するようなイメージとは異なる姿が見えてきます。

なお、今回取り扱うのは徳川家康が亡くなった元和2(1616)年から、秀忠が亡くなる寛永9(1632)年までが中心です。秀忠が政権の中心となっていた時代です。

かなり細かく見ていくことになり、長くなるので、2回に分けて掲載します。

御恩と奉公

「御恩」と「奉公」と言えば、日本史の授業でも鎌倉時代のところで出てきますね。「御恩」は主に、元々持っていた土地の所有を認める本領安堵と、新たな土地を与える新恩給与からなります。「奉公」とは「御恩」に対するもので、戦いの時に軍事的な役割を果たすことや経済的な負担を負うことです。

今回見ていく中で「御恩」にあたるのは、主に元和3(1617)年に一斉に発行された領知宛行状(りょうちあてがいじょう)です。

領知宛行状とは、将軍が大名に対してその領地の支配を認める書類です。この頃の大名は先祖代々の土地を支配している者は殆どいないので、必ずしも「本領」とは言えないかもしれませんが、鎌倉時代で言えば「本領安堵」のイメージに近いでしょうか。

「奉公」にあたるのは、本来であれば大坂の陣等の軍事的動員があります。

しかし、江戸時代になると、大坂夏の陣の後は島原・天草一揆を除いて大きな戦いは無くなります。それに代わって「奉公」と認識されたものの一つが城の普請に動員されること(普請役)です。

城の普請へのイメージ

江戸幕府が大名を動員して実施する城の普請(公儀普請)。そう聞くと、幕府が大名に大きな負担を強いることで、大名の持つ資金を使わせ、大名の経済力をそぎ落とした、というイメージを持つ人は多いのではないでしょうか?

※「普請」とは土木工事にあたるもので、建物の建設は「作事(さくじ)」と言います。

公儀普請において大名が自己資金を多く投入したのは事実です。しかし、上記のような幕府の大名に対する抑圧策のイメージは実際とは異なります。

大きな戦いが少なくなった(又は無くなった)時代において、普請役(公儀普請において大名が城の普請に動員されること)は「御恩」に対する「奉公」であったと解釈されています。実は研究では半世紀以上前から言われている事なのです。

例えば、元和5(1619)年9月16日に大坂城の普請役が西国の大名に賦課され、翌6年に実施されました。この時、元和6年2月26日付で松平定綱が土佐藩の山内康豊に宛てた書状では次のような事が書かれています。

現在の「奉公」は普請において評価されるらしいので、油断の無いようにすることが大切である。

これは公儀普請の普請役を担うことが、「奉公」であると認識されていたことを示しています。駿府以西の大名は前述のように、元和3年に秀忠から領知宛行状が発給されており、その「御恩」に対し「奉公」を示す場が用意されたと言えるのです。

同じ2月26日付で、細川忠興が大坂城普請の現場にいる家臣に宛てた書状では、作業が遅れそうであれば、日雇労働者を何人でも雇うように指示しています。これは、「奉公」の度合いが評価される場(=公儀普請の場)において、遅れを回避する必要があったためと考えられています。

また、大名にとっては、上記のように「奉公」を示すという意識の他に、普請役を担うことは幕府を中心とした体制の一員として果たすべきことと認識されていました。このため、幕府が大名に一方的に負担を強いて、大名は嫌々それに従って、経済的負担も負ったというのは正しい見方ではありません。

幕府も、大名が普請役を担うにあたって、様々な配慮をしています。意外かもしれませんが。その配慮とは・・・

  • 一定期間、公儀普請を実施しない
  • 公儀普請を行う場合に大名に米を支給
  • 大名の事前準備が無駄になった場合の支援

といった事です。

以下、それぞれの内容を見ていきます。幕府のイメージが変わりますよ。

一定期間公儀普請を実施しない①

まず1点目です。一定期間実施しない、というと、確かにそれだけで大名に対する配慮に見えます。しかし、その期間にも意味があるのです。

秀忠政権の期間で、大きな公儀普請が長期間にわたって実施されなかったのは主に2期間です。最初に見るのは慶長20~元和6(1615~20)年です。家康の最晩年も一部含みます。

なぜ実施されなかったのか?従来は次のような説が出されていました。

  • 秀忠が家康の葬儀、上洛、後陽成上皇・後水尾天皇間の不和調停等を優先したため。(北原糸子氏)
  • 一国一城令や武家諸法度を出したことと関連して、秀忠政権が公儀普請(城普請)を実施しないことで、諸国の大名の城普請も規制することを意図した(幕府が城を造らないから、大名も城を造りづらい)。(横田冬彦氏)

しかし、これらの説はいずれも史料での裏付けが乏しいことが課題のようです。川路氏は具体的な史料に基づいて検証を試みています。一つずつ見てきましょう。

①元和元(1615)年7月26日付、細川忠興から細川忠利に宛てた書状

※細川氏は小倉藩、後に熊本藩の藩主となった家です。細川忠興と忠利は父子(忠興が父)です。総理大臣となった細川護熙氏は子孫です。

細川氏は、家康(この時は存命中)の側近の僧侶であった金地院崇伝から、今後10年間は公儀普請が全国的に免除される可能性があるとの情報を得ています。

②元和2(1616)年1月3日付、細川忠興から細川氏の家臣15人に宛てた書状

細川氏は「家康が隠居所である新たな城の普請を行うにあたり、慶長19(1614)年の江戸城普請や大坂冬・夏の陣(1614・15年)による大名の疲弊を気遣い、普請は幕府が日雇労働者を雇って行うことになった。」という情報を得ました。

※この家康の新たな隠居所は、家康が亡くなったことにより、実際は造られませんでした。

しかし、大名の中には普請役の賦課を内々に要望する者がいたようです。このことからも、大名は普請役を自ら望む姿勢があったことがわかります。

このことに対し家康は、せっかく大名の負担にならないように配慮したのに、このような要望をする大名がいる(自分の配慮を無下にされた)ことに機嫌を損ねています。

しかししかし、結局諸大名は近場の伊豆国で普請に必要な石材を切り出す「石場」等を確保していきます。細川家も例外ではありませんでした。

この時代は戦いにおいても、「抜け駆けで功をあげてもダメ」というルールをどれだけ言って聞かせても、抜け駆けをしようとします。家康がいくら配慮しても、普請役の賦課を望んだり石場を確保したりといった行為は、大名の「我こそ普請で一番の功を挙げてみせる!」というような意気込みの表れなのでしょう。

③元和2年8月10日付、細川忠興から細川忠利に宛てた書状

※家康は約4ヶ月前に亡くなっています。

細川氏は、秀忠の側近衆からの情報として、「秀忠は人々が休まるような政策をとるため、今後容易に公儀普請を実施することは無い」と聞きました。

この書状にあるとおり、実際にこの後、元和6年の大坂城普請までは多数の諸大名に普請役が一斉に賦課されることはありませんでした。

公儀普請が一定期間実施されなかった理由は、秀忠が晩年の家康の政策(上記②)を踏襲し、諸大名を疲弊から回復させるためであったと考えられています。

一定期間公儀普請を実施しない②

大きな公儀普請が長期間にわたって実施されなかった期間の2つ目は寛永年間です。

まず、元和10(寛永元、1624)年に大坂城普請が実施され、同年中に完了します。

翌寛永2年には、以前に松平忠直(この前年に改易)が担当した石垣の築き直しと、前年からの堀普請が継続されます。

そして、寛永3年には秀忠の上洛が行われます。一方で、各地で旱魃(かんばつ)の被害が発生します。このため、翌4年に計画されていた公儀普請は延期になります。この寛永4年に、細川忠興は領国の疲弊を秀忠に伝え、秀忠は同情したとされています。

延期されていた大坂城普請は寛永5年に実施されます。

この寛永5年には次の3つの史料があります。

①寛永5年7月19日付、立花宗茂から家臣に宛てた書状

「公儀普請は今後6~7年は無い。秀忠が(江戸城から)大坂城に拠点を移す場合に必要な普請は、幕府が日雇労働者を雇って実施するという秀忠の命令があった。」と書かれています。

②寛永5年9月25日付、細川忠利から細川忠興の側近に宛てたと推定される書状

③寛永5年9月26日付、細川忠興から細川忠利に宛てた書状

②・③では、来年の夏まで(秀忠や家光の)上洛が無いため、公儀普請が実施されると予想しています。このことから、公儀普請実施のためには、秀忠らの上洛が無いという条件が必要であったことがわかります。上洛と公儀普請は同年に重ならないように調整されていたのです。

順番が逆になりましたが、実は①に関して、翌寛永6年に江戸城普請が実施されています。立花宗茂の伝えた情報(公儀普請は今後6~7年は無い)は誤りだったのか?いや、そうではありません。

これまで(元和6・寛永元・5年)の大坂城普請を賦課された大名(立花宗茂を含む西国大名)と、寛永6年の江戸城普請を賦課された大名は重複しないのです。つまり、立花宗茂が自分たちについて、今後6~7年は普請は賦課されないとしたのは正しいのです。西国大名の多くは、立花宗茂の書状から8年後の寛永13年まで大規模な公儀普請に動員されませんでした。

この時期(寛永年間)は旱魃・虫害が続き、幕府はこうした状況にも配慮していたと考えられています。

今回はここまでです。次回は、幕府から大名への米の支給と、大名の事前準備が無駄になった場合の支援について見ていきます。

《参考文献》

  • 『日本史広辞典』(山川出版社、1997年)
  • 川路祥隆「徳川秀忠政権の公儀普請にみる対大名政策」(『日本歴史』916号、2024年9月)

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